勝鬘経義疏

「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする。

「法華経義疏」巻頭の題箋について、大山説は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。

安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。

また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。

王勇は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。

ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする。

また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。
update:2010年02月26日